日本陸軍AFV
                   
−概 要−
 ここでは、旧日本陸軍の装備を紹介します。
 
−ギャラリー−
 武器学校の目玉のひとつ、端っこの屋外展示場に展示されていた三式中戦車と、火砲館に保存されている 旧日本陸軍の火砲の紹介です。
 正門脇にある、旧日本軍の火砲を収めた展示室・火砲館です。
 入口の砲弾がおちゃめ〜。
 三八式野砲です。
 日露戦争当時、露軍の新鋭野砲に対して日本陸軍の三一式速射野砲の性能が劣ったため、 戦争間、急遽ドイツのクルップ社に注文した砲である。
 日露戦争には間に合わなかったが当時の最新鋭野砲であった。
 明治末期から大正にわたり用いられたが、第一次大戦後構造の旧式化に伴い改造された。
 (説明ボードの原文ママ)
 三八式野砲の後部です。
 改造三八式野砲です。
 第一次大戦において火砲は飛躍的に進歩し、最早三八式野砲では 日本陸軍でも主力火砲としての性能を満足するものではなく更新が要求された。
 しかし経済的或いは更新に要する時間的理由から改造(主として射撃操作性の向上) と決定したものである。
 改造後の戦績は、必ずしも振るわなかった。
 (説明ボードの原文ママ)
 改造三八式野砲の後部です。
 四一式山砲です。
 砲兵大佐(後の大将)島川文八朗の考案による。
 九四式山砲とともに日本陸軍が最も多く使用した火砲である。
 四一式は本来山砲であったが、1035年に歩兵連隊の近接支援用の連隊砲として再交付され、 各戦域で広く上記趣旨に或いは対戦車自衛戦闘用に使用された。
 (説明ボードの原文ママ)
 四一式山砲の後部です。
 九一式十糎(センチ)榴弾砲です。
 九四式山砲、四一式山砲の次に日本陸軍で3番目に多用された砲である。
 九○式野砲ととおに仏国シュナイダー社に日本に適する条件を示して、 設計製造を注文した。
 威力(弾丸威力・射程・射撃操作性・機動性)は当時としては優秀であり大戦間、 師団砲兵の主力装備(約1/3)であった。
 (説明ボードの原文ママ)
 九一式十糎榴弾砲の後部です。
 九四式三十七粍(ミリ)砲です。
 独軍37mm対戦車砲の影響を受け開発制式化、採用後数年間は当時の戦車を 撃破できる威力を有していた(200m以内の近距離射撃)。
 ノモンハン事件の対戦車戦闘では近距離で威力発揮したが、遠距離でソ連隊戦車砲に破壊された。
 その後の戦績は振るわなかった。
 (説明ボードの原文ママ)
 九四式三十七粍砲の後部です。
 一式四十七粍砲です。
 ノモンハン事件の対戦車戦闘でソ軍45ミリ戦車砲、同対戦車砲に対抗しうる47ミリ隊戦車砲が 要求され開発制式化された。
 第二次大戦中期には独立大隊として南太平洋の各戦線に配備されたが、M4中戦車には 歯が立たなかった。この間、列国は50ミリ〜76ミリ砲の開発に着手しており、大戦間逐次 実用化された。
 その後の戦績は振るわなかった。
 (説明ボードの原文ママ)
 一式四十七粍砲の後部です。
 鹵獲クルップ砲です。
 この火砲は、ドイツのアフルレッド・クルップが作った兵器工場で作成され、清国が使っていた 口径120mmの火砲です。
 砲の刻印から1884年に作られたものですが、明治27〜28年の間に起きた日本と清国の戦争(日清戦争)で、 勝利した日本が戦勝記念として鹵獲した物が、敗戦後、米軍管理であったものが、昭和32に米軍より 武器学校に移管され旧広報館前に展示されていました。
 (説明ボードの原文ママ)
 四年式十五糎榴弾砲です。
 トルコ帝国がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻撃した際に使用した「ウルバンの巨砲」です。
 固定砲で、一日に7発を発射するのが精一杯だったそうですが、その威力は絶大だったようです。
 ギリシャ、ローマ時代に広く使われていた投石器「カタパルト」「トレシビット」の実物大模型の画像です。